いういつものパターン。
それでも日曜の朝はいつもよりゆっくり寝ることができた。
「おはよう」
朝食の準備に取り掛かっていた美智子が耕作に気付いて声を掛けてきた。美智子は昨夜の耕作の様子がおかしいことに気付き心配していたのだった。
「何時?」
「九時半よ」
起きたばかりの耕作はキッチンのテーブルに座り、美智子の入れてくれたコーヒーを飲みながら新聞に目を通した。
耕作は政治面や経済面をほとんどと言っていい程読まない。読もうと努力した時期もあったが、目で追っているはずの活字が頭の中に入ってこないのだった。
耕作はスポーツ欄を開いた。野球が好きではないが結果は気になる。特別贔屓にしているチームがあるわけではないが、何故かしらジャイアンツが負けると「ほっ」とするのだった。
その日の新聞はジャイアンツが九回裏でさよならホームランで負けていた。
「よし、いいぞ」
耕作は小さくガッツポーズをした。
そんな耕作の様子を見ながら、美智子は安心するのだった。昨夜の夫の様子は朝になっても気になっていた。しかし、起きてきた耕作の様子に変わったところはなく、いつもと同じだった。
耕作は次に三面記事を見た。
『若者三人が乗った乗用車が登園途中の園児の列に突っ込み園児二人が死亡、三人が重軽傷』
耕作の目に飛び込んできた記事は、忘れかけていた若者に対する怒りを蘇らせるのだった。
(許せん)
コーヒーを一口飲み、耕作は車高を低く落とした暴走車がいたいけな幼い子を薙ぎ倒すシーンを想像した。
(天誅じゃ)
この瞬間、耕作は完全に平成の『世直し大明神』に変身していた。
が、夕べから何も食べていない耕作の胃は情けないくらい簡単にギブアップ宣言をしており、美智子が用意したトーストとサラダとハムエッグを残らず食べるのだった。
朝食を食べ終わると耕作は力強く椅子から立上がり、トイレに向かうのだった。
トイレから出た耕作は、動きやすいトレーナーに身を包み、不思議そうに見守る家族を残して出て行こうとした。
「パパ、どこ行くの。私も行く」
お姉ちゃんが耕作の後を追って玄関まで付いてきた。
「パパは健康のためにジョギングに行くんだからヨッちゃんはお家で待っててね」
まずは体力。そう考えた耕作はさっそく実行しようと思っていた。
「私も行く〜」
背筋を伸ばし、玄関から出た耕作の右手には長女の左手がしっかりと握られていた。
「パパ、ヨーイドンだよ」
嬉しそうにはしゃぐお姉ちゃんの右手の感触は心地好く、復習に燃える耕作の気持ちは萎えてきそうになるのだった。
結局、近所を一周しただけで心臓が爆発してしまいそうになり、最初の目標の十キロは簡単に断念して直ぐに家に戻ることにした。 玄関先でゼーゼーと深呼吸しながら、耕作の頭の中は次の行動を考えていた。
体力よりも知力で勝負する路線に変更することを決意するのだった。そして、最近郊外にできたスーパーに家族全員で行くことを宣言して、居間の掃除をしていた美智子を急き立てた。
「昼からじゃダメなの?」
突然の、思い付きともいえる耕作の申し出に美智子は戸惑っていた。
「だからさぁ、昼からじゃ混むでしょ。それにああいったスーパーは早く行く方がいい品物が一杯あるに決まってるし、もしかするとタイムサービスとか何とか言って安くていいものが売ってるかもしれないでしょ」
理路整然、有無を言わさない耕作の勢いに押されて、仕方無く美智子は外出の準備を始めたのだった。
スーパーの駐車場は午前中にも関わらず車で一杯だった。警備員が立っているのだが、アルバイトの学生でも雇っているのか慣れていないようで誘導はぎこちなく、スーパーの入り口には車が何台も連なっていた。
「一杯ねぇ」
なかなか進まない車の列に美智子は苛つき不平を漏らした。
「午前中でこれだけ混んでるんだから、昼からだともっと一杯だよ。午前中に来て正解だったね」
午前中に行動をおこしたことを手柄のように耕作は美智子に言うのだった。
何かを探しているかのように焦点の合わない耕作の視線は駐車場に向けて泳いでいた。 そして、一台の派手な車高の低い車を見つけると、耕作の視線はその車から動こうとはしなかった。
ようやく駐車場内に入り、空いたスペースを見つけた耕作はギアをリバースに入れバックしようとした。
ほとんど毎日営業車に乗ってはいる耕作だったが、自家用車は日曜日しか運転をしないので、それでなくても運転の下手な耕作は簡単なバックですら、何度も前進後退を繰り返えさなければならなかった。
耕作の一向に捗らない車庫入れに行く手を塞がれた車は、いつ収まるともわからない耕作のバックと前進の繰り返しにイライラとしていた。
その中の一台、紫ラメの車が我慢仕切れなくなったのか催促のホーンを短く鳴らした。特別悪意のこもった苛立つようなホーンではないが、耕作にとっては「呑くさい奴め、お前のように運転の下手な奴は車に乗る資格なんて無い。迷惑かけるくらいならとっとと出て行け」と、言っているように聞こえるのだった。
焦って逆上した耕作は思わずアクセルを強く踏んでしまい、急に車が加速した。
「わぁぁぁぁ〜」
助手席で美智子が叫んでいた。目の前に紺色の軽自動車が迫ってきた。正確には耕作の車が紺色の軽自動車に突っ込んでいった。
渾身の力を右足に込めて耕作はブレーキを踏んだ。
「ジュルジュル」
タイヤは情けない音と焦げ臭い匂いを振りまいて、紺色の軽自動車の数センチ手前でようやく止まった。
肩で息を付く必死の形相の耕作と美智子。 耕作はホーンを鳴らした車の運転手をにらみ付けた。
『文句あるのか、この下手くそ。おめーの運転が下手クソだからぶつかりそうになったんだろうが、バーカ』
運転手は明らかに耕作をバカにしているようだった。
耕作が考える天誅対象年齢よりは若干年上のようだった。が、若者という範疇で区分けをするなら、しっかりと入っているようだった。
耕作は標的を見つけた猟犬のように興奮してきた。
車から降りた耕作達一家四人は並んでスーパーの入り口に向かった。心なしか美智子の足元はふらついているようだった。二人の子ども達はジェットコースターのような運転に喜んではしゃいでいた。
「パパすごかったね」
店に入ると、耕作は美智子に「トイレに行く」と言って駐車場に向かった。美智子達は食品売り場に向かって行ったから耕作の行動を不自然に感じることはなかっただろう。
駐車場に戻った耕作は、先程耕作の車に対して威嚇及び威圧的なクラクションを鳴らした紫ラメの車を探し始めた。
駐車場を憮然とした表情で眺める耕作の雰囲気は堅く、そして冷酷に見えただろう。実際、唇を真一文字に結んだ耕作の表情からは人間味のある体温を感じることもできなかったに違いない。しかし、その瞳の奥に燃えたぎる正義の炎は、まるで天を突き、地を焦がすかの勢いで燃え盛っていた。
耕作の目指す紫ラメの車は直ぐに見つけることができた。耕作の車からはかなり離れた所に止めてあった。
『ザマーミロ。そんなに入り口から離れた所にしか駐車できなかったのかよー』
耕作の眉間に深いシワが刻まれた。耕作が決意をした時の癖である。
ポケットから鍵束を取り出した耕作はジャラジャラと軽快に音をさせながら紫ラメの車に近付いて行った。
手の中で数本の鍵を弄びながら、耕作は手頃な鍵を手探りで選んでいた。車の鍵、部屋の鍵、職場のデスクの鍵。その中で耕作は一番長さがあり、トゲトゲが鋭く摩滅もしないで残っていた車の鍵を強く握り締めた。
途中でショッピングカートが視野の片隅に入った耕作は、鍵束をすんなりとポケットに入れカートに近付いた。カートを見る耕作の瞳は打ち上がった日本刀を見る刀匠の目だった。
そして、おもむろにカートの取っ手を握り締めると耕作はカートを押して歩き始めた。 歩きながら、耕作は車の中から自分をバカにした運転手がスーパーの出口から出てこないか注意していた。計画は迅速かつ繊細に行われなければならない。
紫ラメの車の前までカートを押してきた耕作は、一旦そこで止まりもう一度辺りを見渡した。失敗は許されない、念には念をだ。
耕作の動きに注目している人がいないことを確認した耕作は、紫ラメの車と、隣に止まっていた白い車の間をカートを押して進んで行った。もちろん、カートの角を紫ラメの車にこすりつけてである。
耕作の意思に反してカートは右に曲がろうとする。多分、カートの右前の車輪に何かが挟まっているのだろう。無理に左に曲げようとすると、腰に負担がかかる。最近、腰痛に悩まされている耕作にとって、かなり無理な体勢を強いることになるがそんな些細な事に構っている場合ではなかった。
紫ラメの車の左ボディーにうっすらと線が入った。しかしそれは致命傷という傷ではなかった。
車の後ろに出た耕作は紫ラメの車の後ろをぐるっと回って反対側の後ろに出た。そして今度は鍵束を左手に持ち、カートを押しながら紫ラメの車に体を密着させて二台の車の間から出て行った。
『本当にもう、狭いから困るんだもんね』という演技をしながらである。
もちろん左手の鍵は紫ラメの車の運転手側のボディを大きくえぐっていた。
鍵の先が塗装をはぎ取る感触が伝わってきた。『ギギギー』という普段なら耳障りな音も何故か耳に心地好い。
はっきりとわかる傷が紫ラメの車のボディに刻み付いた。傷取りワックスなんかでは手に負えない傷、塗装の下にまで達する傷である。ニンマリと笑った耕作は何事もなかったかのようにカートを押しながらスーパーの入り口に向かった。
理不尽な車に天誅!
そして、行き掛けの駄賃とばかりに耕作は最初に見つけた車高の低い車にもカート・アンド・キー攻撃をぶちかましてやった。そして、トドメとばかりに自分の車のキーを派手な車の鍵穴に無理やり押し込んでやったのだった。これで派手車のキーの具合は悪くなるだろう。耕作は体の隅々にまで流れる満足感と充実感と達成感を感じながら、心地好い陶酔感を味わっていた。しかし、鍵穴からキーを抜き取ろうとした耕作はなかなか抜けない鍵に大いにうろたえてしまったのだった。
 
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